日蓮に慈悲の光を見た

 

ついに日蓮に来た

とうとう日蓮に来てしまいました。
親鸞、法然、一遍、空海、道元、臨済と通ってきましたが、わざと日蓮だけは避けていました。そのキャラがあまりにも強烈なのと、その性格というか思考回路に自分と似たようなものを感じていたからです。自分と同質なものを感じる分、余計に感情的に共鳴しすぎて心酔してしまい、かえってあるがままの姿でとらえることができなくなります。そして個人崇拝に突き進むという結果になるでしょう。きっと10代、20代の血気盛んな若い頃に出会った最初の宗教家が日蓮だったら、完全にとりこまれてしまい、今頃布教の急先鋒になっていたに違いありません。
しかしその不寛容で戦闘的な性格は危険でもあります。
しかしまたそこが魅力でもあります。
これは諸刃の剣です。
そしてなんと自分は日蓮の仇敵でもある浄土門から入ったのですから、皮肉です。でもこれでいいのです。これでバランスがとれます。だいぶ仏典も読み込んできたので、もうそろそろ最後に残った日蓮の著作に入る時期がきました。彼は大好きですが、もうとりこまれはしません。
日蓮と向き合う覚悟はできたのです。

 


日蓮の魅力

日蓮についてはこれまでにも評価が分かれています。とことん好きか(崇拝)、とことん嫌いかの二つ分かれているようです。しかしそのどちらも見方が偏っていると思われます。そして僕個人としても、日蓮については魅力を感じる部分と、危険を感じる部分があるので、その両方を述べてみたいと思います。まずは魅力から。

「自分が苦難を受けるのは、自分が正しいことの証明である。」

日蓮は法華経を弘めるために他宗を激しく攻撃したり、鎌倉幕府に直訴したりしたので、弾圧や迫害を受けることになりました。しかし、法華経にある「この教えを弘めようとするものは、数々の苦難に遭うであろう。」という経文から、自分が苦難に遭うのは自分がやっていることの正しさの証明であると確信し、めげるどころかますます信念を新たにしたのです。

逆境に なればなるほど 強くなる

この思考回路に入ればもう誰にも止められません。最強です。無敵です。
かれは日本を救うのは自分しかいないと確信し

われ日本の柱とならん。われ日本の眼目とならん。われ日本の大船とならん。

と誓いました。かっこよすぎます。シビレます。実際、日蓮は危険を顧みずいつも捨て身で行動します。その姿は、正義の味方が単身、悪の巣窟に乗り込んでいって片っ端から悪いやつらを切り伏せる、という時代劇の主人公そのものです。

日本のため、正義のため、自分の命を顧みず悪と戦う救世主日蓮

これが多くの日本人をとりこにするヒーロー的日蓮像です。
たしかにすごい魅力です。僕もこの部分でも惚れています。
でも僕がもっとも日蓮に感謝しているのは、実はそのような日蓮のヒーロー的な部分ではありません。
日蓮の最大の功績、それは法華経という存在を私たちに教えてくれたことにあります。
法華経はすばらしい教えです。
そして日蓮がいなければ、僕は法華経を読んでいなかったかもしれない。
ですから僕は日蓮にはまずは礼を言わなければなりません。

 

日蓮への質問

日蓮はヒーロー的に支持される一方、その容赦ない攻撃性ゆえ今でも多くの人に嫌われています。

「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説である」

自分だけが正しく、自分を支持しないものはすべて敵である。敵には容赦なく罵詈雑言を浴びせて罵倒する。その偏狭と不寛容さにはちょっとついていけないものがあります。いくら法華経がすばらしい教えであるからといっても、その強引な布教の仕方はもうちょっと何とかならないのかと思ってしまいます。しかし僕の彼に対する本当の疑問点は少し違います。彼は正法、正法といって何かと正法を振り回し、正法を誹謗するものはみんな地獄へ落ちると、いつも大音声で呼ばわっていましたから、

彼には敵を救うという慈悲の心があるのだろうか

僕が日蓮に聞きたいのはその一点でした。宗教や宗教家の思想に対して、僕がいつも最後の決め手として判断するのは、彼らにとっての敵・異教徒・極悪人が地獄に墜ちるのを救うという思想がその中にあるかというところです。

汝の敵を愛せ

キリストは十字架に架けられた時、自分を十字架に架けた者のために祈ったのです。日蓮が滝口で斬首されようとしたとき、はたして彼に敵に対して祈る気持ちがあったかどうか。

悪人こそ救われる

親鸞の生涯はすべての悪人を救うために捧げられた。南無阿弥陀仏は悪人に対する祈りだったのです。はたして日蓮に正法を誹謗する者を救うというこころがあったかどうか。

日蓮の言動をふつうに見ていると、かれにはそれはないようにしか見えません。ところが、法華経の教えはそうではない。

すべてのひとが仏になる

それは極悪人の一闡提も救われるという究極の、無条件の、絶対の救いの思想なのです。仏教にはブッダを殺害しようとしたデーヴァダッタというものが、極悪人の象徴として出てきますが、法華経では彼にまで仏になるという予言(授記)を与えます。ブッダは法華経において、自分を殺そうとした敵を救ったのです。デーヴァダッタこそ正法誹謗の張本人。その悪の張本人が仏になるという究極の救いの教え。それが法華経だったのです。しかし法華経にはこの教えを誹謗するものは地獄に墜ちるとも説いています。結局正法誹謗は地獄に墜ちるのか墜ちないのか、どっちなのか。論理的には矛盾に陥っていますが、実はそれゆえ真実なのです。このことについて、また法華経の解釈について話し出すときりがありませんからしばらく置きます。

日蓮は法華経を弘めようとした。
そしてそれを信じないものはみんな地獄へ墜ちると言った。
しかし法華経にはすべての人は仏になると宣言されている。
そのすべての人の中には正法誹謗も含まれる。
日蓮はそのことを知っていたのか。
実は彼らも地獄に墜ちないで救われると言うことを。

そして僕はそのことを日蓮に聞くために、彼の著作を読みました。そして彼は「観心本尊抄」で僕の質問に答えてくれました。僕の疑問は氷解し、これまでの誤解は完全に解けたのです。

 

 

日蓮の答え

日蓮に正法を誹謗する者を救う慈悲のこころはあるのでしょうか。
はたして日蓮は敵を救えるのか。
日蓮は質問者に問い詰められます

日蓮:答えていう。宣べられない、と。
問者:重ねて問いていう。いかなるわけか、と。
日蓮:答えていう。宣べられない、と。
問者:また重ねていう、いかなるわけであるか、と。
日蓮:答えていう。このことをいいただせば、すべての世間の諸人は、昔の威王音仏の末法の時に、不軽菩薩を迫害したようになるであろう。またわが弟子のなかにも、少しでもこれを説けば、みな誹謗するであろう。それゆえ黙して止むのである、と。
問者:求めていう。もし黙して説かないならば、汝は法門を惜しみ貪る罪におちるであろう、と。
日蓮:答えていう。進退これにきわまった。こころみに大略を説こう、と。
(「観心本尊抄」 日蓮)

日蓮は質問者に問い詰められ、答えられず、とうとう進退きわまってしまいました。ここで言う”不軽菩薩”の話は、法華経の不軽菩薩品で不軽菩薩が「みなさんはみんなほとけになるでありましょう」と宣言してまわったので迫害されたことを指しています。さて、日蓮の答えやいかに。ここに彼の明かした大略の大略を述べておきます。

涅槃経に「たとえば、七人の子供がいて、父母の愛は平等でないわけではないけれど、その子供の中で病気の子供にもっとも愛情が重い」とある。法華経においてこの病気の子供とはすなわち法華経を誹謗する者をいうのである。仏滅後の人々は西も東も分からなくなり、法華経を説いてもありがたさが分からず、かえってそしるであろう。しかしそういう者とてすべてほとけにとってはわが子である。それは病気のわが子に等しい。かれらを特に愛するゆえに、ほとけはかれらのために良薬を残された。これが
”妙法蓮華経”
の五文字である。「謗法の罪によって悪道に堕ちるが、法華経を聞いたことによって、のちに必ず利益を得る」というのはこれである。
(観心本尊抄 日蓮 略出)

日蓮さん、あなたは法華経を信じないものは地獄へ堕ちると大音声で呼ばわっておきながら、実は”南無妙法蓮華経”と唱えて相手に聞かせることで、敵を地獄へ堕ちることから救っていたのではないですか。日蓮は知っていたのです。正法誹謗の者も最後には救われるということを。正法誹謗の者こそ、ほとけの最愛の病気の一人子だったのです。

観心本尊抄において
僕ははじめて
日蓮に慈悲の光を見ました。

 

 

摂受と折伏

日蓮にも慈悲の光が見えたのは大きな発見でした。これまで日蓮といえば”折伏”といって相手に論争をふっかけて力ずくでねじふせる形の布教スタイルですから、このことについて反論を試みようと思っていたのですが、もういいか、という気持ちにもなってきました。でもやっぱり危険性もあるので少しは書きます。

お前は間違っている!
回心しないと地獄へ堕ちる!

などと大音声(だいおんじょう)で呼ばわる日蓮のやりかたはほとんど”けんか仏教”です。しかも彼の弘めようとした法華経にはそんな布教の仕方をしてはならないと書いてあります。そのことについて日蓮は「開目抄」で述べているので検証してみたいと思います。

法華経の安楽行品には法華経を弘めるにあたっての注意点が書かれています。

「この経を説こうとするならば、仏道を学ぶ者を軽蔑し罵って、その長所短所を追求するようなことをしてはならない。
もしこの経を説こうとするならば、嫉妬心や、憎しみや、高慢さや、へつらい心や、欺く心や、偽りの心を捨てて、常に素直であらねばならない。
人を軽蔑してはならないし、教えについていたずらな論議をしたりしてはならない。
他人に向かって、「おまえは仏になれない」などと言って、その心を混乱させてはならない。
この仏の子が教えを説くときは、常に柔和であって、よく耐え忍び、一切の者を慈悲して、怠け心をおこしてはならない。
十方の大菩薩で生ける者たちをあわれむ心から道を行ずる者に対しては、「この人はわたしの大いなる師である」と恭敬の心をおこせ。
もろもろの仏に対して、「無上の父である」という思いをおこし、高慢な心を打破して、教えを説くのに障碍がないようにせよ。」
(法華経 安楽行品)

もう日蓮のやり方とはなにもかもが正反対です。それに対する日蓮の答えは

日蓮:答えていう。「止観」にいう。「それ仏に両説あり。一には摂、二に折。安楽品のごときはこれ摂の義である。大経に「刀杖を執持し、ないし首を斬る」というのは、これ折の義である。与と奪と、途を異にするといえども、ともに利益せしむ」と、
(開目抄 日蓮)

法華経の経文について聞かれているのに「止観」によって答えています。以下、「弘決」にいう・・・、「文句」にいう・・・、「涅槃経疏」にいう・・・、と法華経以外の経や釈によって答えていうには、布教の仕方には摂受と折伏の二つがあり、今は折伏のときなのだというのが、日蓮の主張です。
しかし、この論理には無理があります。日蓮はその著作の至る所で「法華経とそれ以外の経・論・釈とで意見が異なるなら、法華経の方が正しい」という原則を自ら建てているからです。法華経を読めば分かることですが、一向に摂受について説いてあり、折伏については全く説かれていません。しかも法華経は世の乱れた末法についてあらかじめ想定されて説かれた経ですから、折伏が可なら、「これこれこういうときは折伏せよ」と法華経に書いていなければならないはずです。
ここは日蓮も弱点だと自覚しているとみえて、

「汝の不審を、世間の学者は多分道理とおもうであろう。いかように諫暁しても日蓮の弟子等さえこの考えを捨てない。一闡提のごとくであるゆえ、まず天台・妙楽等の解釈を出してかれの難を防ごうと思う。・・・無智・悪人の国土に充満するときは摂受を先とする。安楽行品のごとくである。邪智・謗法の者多いときは折伏を先とする。常不軽品のごとくである。」
(開目抄 日蓮)

さすがに法華経に根拠が何もないのは弱いと思ったらしく、常不軽品を折伏の根拠に挙げています。では常不軽品が本当に折伏を説いているのか、検証してみましょう。
法華経の常不軽菩薩品には常不軽菩薩という風変わりな菩薩が出てきます。彼は呼ばれてもないのに、
「ことさらそこまで行って礼拝讃嘆してこう言ったー
『わたしは決してあなたたちを軽蔑したりはいたしません。あなたたちはやがて仏になるでありましょう』
人々の中には、怒りや憎しみの念を生じ、心清らかでない人々もいて、悪口して罵ってこう言ったー
『この無智の比丘、いったいどこからやって来てわれらに向かって、<あなたたちを軽蔑したりはいたしません。あなたたちはやがて仏になられるでありましょう>などと予言したりするのか。われらにはそんな虚妄な予言など必要ないのだ』と。
このようにして多年のあいだ、常に罵られたけれども、怒りや憎しみの念をおこさず、常に『あなたたちはやがて仏になられるでありましょう』と言っていた。
このことばを言うと、多くの人々はあるいは枝や木、瓦や石などで打ったり投げたりするので、それを避けて遠くへ走って行ってはなお高い声で、『わたしたちはあえてあなたたちを軽蔑したりはいたしません。あなたたちはやがて仏になられるでありましょう』と叫んだのである。」
(法華経 常不軽菩薩品)

日蓮は常不軽菩薩が迫害されたのをよく自分に見立てていますが、その言動は正反対です。たしかに、呼ばれてもないのに予言をするのは折伏のようですが、常不軽菩薩はけっして相手を軽蔑したり、お前は地獄に堕ちるなどとは言わなかったのです。そして、常に相手を軽蔑しないというところから、人々はかれに”常不軽”という名をつけたのであると、法華経は説いています。
もうぜんぜん日蓮とは違います。日蓮はまずは相手に罵詈雑言をあびせてけちょんけちょんにけなして軽蔑します。そして、”仏になるでしょう”と祝福するどころか、必ずや地獄に堕ちるであろうなどと、大音声で呼ばわっていたわけですから、もう全く別人です。
つまり、常不軽品は折伏というよりは、摂受の積極型というべきです。

こうしてみると、日蓮は法華経を弘めるという目的は正しいが、その方法に問題があったと言わざるをえません。しかしその強引な方法も、当時の法華経をめぐる危機的な実情を鑑みれば、少しは情状酌量の余地もありそうです。

 

 

法華経の危機

現代に置き換えると日蓮の強引な布教方法は大いに問題がありますが、当時の日本における法華経の危機的状況を考慮すると、それも非常手段として致し方ないと考えられないでもありません。

「この五十年の間に、日本国みな一同に法然房の弟子となった」
「桓武天皇や伝教大師がこの日本国に建立した寺塔は一寺も残らず真言の寺となった」
(撰時抄 日蓮)

と日蓮が思うほど当時は浄土宗が日本中に広まっていて、旧仏教は真言宗(密教)化してしまい、さらに禅宗もどんどん支持を広げている状況でしたから、法華経を第一とした最澄(伝教大師)の天台宗は風前のともし火だったのです。日蓮がひたすら最澄を立てていることは、僕は彼の著作で初めて知りましたが、そうだとすると日蓮の行動は仏教界における改革派に対する保守派の反撃とも取れます。プロテスタントに対するカトリックの反撃のように。そういえば日蓮の攻撃的なところとイエズス会の軍隊的なところはどこか通じるような・・・まあこれは僕の個人的な印象ですから、聞き流してください。
とにかく、日本中だれも法華経を重んじないという危機的状況に際して、もう悠長なことは言ってられないと、日蓮は考えて行動したのでしょう。

今から考えると日蓮という存在は一種の”劇薬”でした。

その劇薬は即効効き目があったのですが、その副作用も大きかったのです。
その効果と副作用は今でも続いています。


劇薬と副作用

日蓮の劇薬型の布教方法は、熱烈さと気合ゆえにはじめは信者獲得にかなりの効果を発揮しますが、その強引さと攻撃性ゆえに信者数が増加するに連れて社会からの抵抗や反発も多くなり、ある程度いくと頭打ちになってしまいます。実際、現在の状況を見てみると、日蓮系の信者数は日本1,2を争うほどにまで増加しましたが、同時に浄土系の信者も同じくらいおり、日蓮が不倶戴天の敵としていた浄土(真)宗と皮肉にも仲良く拮抗しています。日蓮系宗教団体が支持母体の政党もあるようですが、ここのところ議席数が頭打ちか、ややもすると減少傾向です。そして禅宗・真言宗もともに健在です。残念ながら、日蓮の言うように、日本全国すべて”南無妙法蓮華経”一色とはならなかったのです。
これは日蓮の瞋恚を通り越して殺意にみちた言動がその限界性を生み出してしまっていると考えられます。

「日蓮は日本国の棟梁である。日蓮を殺すのは日本国の柱を倒すのである。今に自界反逆難といって同士討ちが起こり、他国侵逼難といってこの国の人々が他国に打ち殺されるのみでなく、多く生け捕りにせられるであろう。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等の寺塔を焼き払って、かれらの頸を由比ガ浜で斬らなければ、日本国はかならず滅びるであろう。」
(撰時抄 日蓮)

日本を自分が守るという自負心は立派ですが、そのために自分の反対者をすべて処刑せよというのは、イスラムのジハード(聖戦)思想も真っ青の過激さです。かれの予言が完全に当たり、日蓮が本当に日本国の棟梁になったら、きっと未曾有の大量虐殺が起こったでしょう。日蓮は立正安国論で蒙古襲来を予言しましたが、それに対する天の采配は適切だったと思います。

「今、その現証がある。日本国と蒙古との合戦に、一切の真言師が調伏の祈祷を行っているから、日本が勝ったならば、真言がすぐれていたと思ってよかろう。」
(撰時抄 日蓮)

確かにその後、現証がありました。しかしそれは、蒙古壊滅、日本勝利の現証だったのです。蒙古襲来の予言が的中して調子に乗りすぎて大風呂敷を広げてしまったため、かえって日蓮の予言が後で外れたことは、動かぬ証拠となって今でも文書で残ってしまったのです。撰時抄で言質をとられてしまっては、言い逃れる術はありません。

予言は半分は当たったが半分は外れた

このことは、日蓮の暴走を食い止めるための天の見事な采配ではなかったでしょうか。日蓮の、法華経を弘めるという目的は正しかったが、その方法に問題があったということを天が示したように思われてなりません。
しかし、日蓮を聖人として評価する道はまだ残されています。

 

 

日蓮は聖人

日蓮につい賛否両論書いてきました。
僕は「法華経を信じない人をも救う」といった観心本尊抄に慈悲の光を見、「法華経を信じないものは地獄へ堕ちる」といったその他の書では瞋恚を見たわけですが、真意はどちらにあるのでしょうか。
それは観心本尊抄にあるのです。
そのことはこの書の添え状の中で

「このこと、日蓮の身にとって大事の法門であるから、無二の信心ある人と見たならば開いてみせられるがよい。この書は今まで聞いたことのないことばかりであるから、人々は驚倒するであろう。仏の滅後二千二百二十余年のあいだに、この書にあるような心を説いた者はいない。」
(観心本尊抄副状 日蓮)

とあるからです。観心本尊抄の中で日蓮は三度問い詰められて進退窮まって「正法誹謗の者を救うために”妙法蓮華経”の五文字はあるのだ」と告白した箇所は、釈尊が何度も請われて「すべての人は仏になるのだ」と法華経を説いたのと重なって、感動的でもありました。ですから、

観心本尊抄にこそ日蓮の真意があり、それ以外の書は方便である

とすることで、日蓮は”敵をも救う真の慈悲者”として、偉大なる聖人の一人となるのであります。日蓮は法華経をしんじないとひどい目にあうぞと怒ることで、わたしたちを叱咤激励していたのではないでしょうか。
そしてその真意は、

「お前たちは法華経を信じないゆえ、
無限の罪業をつくって地獄へ堕ちるであろう。
私は法華経を信じるがゆえに、
無限の功徳を得て天国へ行くだろう。
しかしそれではお前たちがいかにもふびんである。
お前たちは病に苦しむ最愛なる私の一人子に等しい。
だから私のこの無限の功徳をお前たちにすべて回向しよう。
お前たちは私の功徳を持って天国へ行け。
私はお前たちの代わりに地獄へ行こう。
南無妙法蓮華経」

ということにあると僕は思いたいのです。
ただしあくまでこれはアミヤン流の勝手な解釈です。
その他の多くの日蓮宗派や日蓮系の宗教団体の教義がどうなのかは
僕の感知せざるところであります。

 

日蓮

日本の名著8 日蓮 紀野一義訳 中央公論社

立正安国論、開目抄、観心本尊抄など日蓮の主な著作が現代語訳されて収められています。消息集や種種御振舞御書などは日蓮の人間性が伝わってきて、教義は少し難しいという方でも充分に楽しめます。こんなにブっ飛んだお坊さんは過去にもこれから先にも決して現れないでしょう。まさに日蓮の振る舞いを目前で見、肉声を聞いているようで、あまりに興奮しすぎて自分も何度もブっ飛びました。

法華経を信じないで念仏を支持していると言っては時の最高権力者に直訴して頭ごなしに叱り飛ばし、怒りを買って幕府に逮捕されるときも、「日本の柱であるわしを倒す気か!」と捕り物の武士たちに大音声で呼ばわってはたじろがせ、江ノ島で処刑されようとした時も、鎌倉八幡宮に寄っては「わしを助けに来ないならお主は誓いを果たさぬ神であると仏に申し上げるぞ!」といって八幡大菩薩に大声で悪態をつき、いざ頸を斬られようとしたその時は、日蓮のあまりの気合に武士たちは何か奇蹟が起こったかのように見えて、一町ばかりも逃げ走らせてついに処刑とりやめとなり、佐渡に流された時も、高い山に登っては「この日蓮を助けて本国へ戻さないなら仏は大うそつきであるぞ!」と絶叫して自分を助けることを脅迫し(翌年赦免される)、蒙古襲来の予言が当たったときは、「ほら見たことか。日蓮はもう勝ったような気がする」といって喜びました。しかし二度の元寇はなぜか神風が吹いて蒙古は壊滅し、日本の勝利に終わってしまいましたので、最後には日蓮の予言は外れたことになり、そのショックのせいか、さすがの日蓮も弘安の役(二度目の元軍壊滅)の翌年に亡くなりました。

しかし、その豪快で壮絶な生涯は別として、日蓮のおかげで法華経は再び大きく脚光を浴びることになり、その素晴らしい教えが広まったことは大いに感謝すべきであります。
僕もこの著作から、法華経についてたくさん教えてもらいました。法華経を一通り読んでも十分意が汲み取れない時に、日蓮の著作を読むと、まさに”目からうろこ”ということが何度もあるでしょう。
「すべての人をほとけにしたい」
日蓮の過激さと法華経の慈悲深さは対照的です。このもっとも慈悲深い教えを、もっとも無慈悲なやり方で広めようとしたように思われて不思議でしたが、観心本尊抄を読んで日蓮にも慈悲の光を見ることができたので、僕の日蓮像は大きく変わりました。みなさんもこの本を読んで確かめてみてください。

 

ほとけの心

先週からおよそ一週間で日蓮の著作をほぼ読んでしまいましたが、あまりにも濃い一週間でした。一週間で100年生きたようです。かなり仏典を読み込んで、最後に日蓮を取っておいたせいか、教義の内容も良くわかり、改めて日蓮を見直したのですが、それにしてもあまりにも強烈な個性のカリスマ宗教家の肉声を一週間でまとめて聞いたので、今は放心状態です。嵐の過ぎ去った後といった感じ。
これまでいろいろ実況中継風に書いてきましたが、まだまだとても日蓮の魅力は伝え切れません。彼の場合、その教義もさることながら、人間としての魅力(好き嫌いはありますが)もまた格別ですから、宗教にこだわりがない人でも、彼の人生の凄さにはたまげるに違いありません。それについてはまた後で書くかもしれません。あまりにも面白いですから。

しかし日蓮の個性の強さに目がくらんで、彼の広めようとした肝心の教えである”法華経”を忘れてはなりません。ただ法華経は日蓮も「道理は少なく、ほめることが多い」と言うように、いきなり結論が宣言されていてその理由の説明はほとんどなく、後は法華経自体の賞賛で終わっています。その宣言は

すべてのものはほとけとなる

というのが中心にあり、その中に一念三千の法(人の心のなかにすべての世界が内蔵されているということ)、即身成仏、女人成仏、極悪の一闡提成仏などが説かれています。つまり法華経の教えはこれまでのほとけの教えのなかで、もっとも救いの力が強いということです。だからあらゆる経典のなかで最勝であると説かれています。しかしその理由(道理)はほとんど説かれておらず、諸仏がそれを賞賛して証明することで終わっているのです。ですから僕は

”法華経は成仏の宣言すなわち救いの宣言という大乗仏典のシンボル的な存在で、その道理はそのほかのあらゆる経典の中に説かれていることの総合としてあり、すべての経典は法華経と有機的に結合している”

と理解するのであります。いわば法華経は仏典の”顔”ですが、顔だけあってもそれですべて理解できるはずもありません。しかし、専門家でもない限り、すべての経典を読むのは不可能ですし、法華経だけを読むのもほとんど無理かもしれませんから、”南無妙法蓮華経”と唱えるだけで利益があるとするのです。さらに、唱えなくてもその題目を聞くだけでも利益があるとします。

なぜそんなにまでして
ほとけはわたしたちを救いたいのか

それが仏の心であり、その心は文字では記せません。文字で書かれたあらゆる経典はいわばほとけの”体”であり、法華経はその”顔”ですが、それとて心ではありません。体のどの部分を訪ね歩いてもそこに心はありません。

「それを示すことはできないし、それを表現する言葉もない」
(法華経 方便品)

と法華経にもあります。
しかし顔をじっと見ていれば、
その心が見えてくることだってあるでしょう。
ですからみなさんも法華経からほとけの心を霊性で感じ取ってください。

 

 

日蓮は女にモテたはずだ

 

いつも自信満々で向こう見ずな日蓮
僕の経験上、このタイプは絶対に女にモテます。

「また女どもはいかなる失(とが)があっても、一向に注意などされぬように。まして諍いをしたりしてはならぬ。
『涅槃経』にいう。「罪きわめて重しといえども女人に及ばざれ」と。文の心は、いかなる失があっても女人の失を咎めるな、それでこそ賢人であり、仏弟子であるということである。」
(日蓮 消息 四条金吾殿御書)

女の罪は一切赦す。なんという包容力でしょう。男はこうでなければなりません。女に対するこの余裕、今はこのような度量の持った男は少なくなってしまいました。見習うべし、見習うべし。
そんな日蓮は女に対して決して甘ったるい言葉などは掛けません。

「そなたの身になにか事が起こったならば、この身延へおいでになるがよい。お会いしよう。また山中にてともに飢え死にもしよう。」
(日蓮 乙御前御消息)

これは蒙古襲来を予測して女人に書き送った手紙。「危なくなったら俺の所に来い。一緒に飢え死にしよう。」などとしゃあしゃあと言ってます。「絶対に君を幸せにするから」などという甘ったれたことは言いません。それでも女はみんな俺についてくると絶対の自信を持っているからです。
そんな男に惚れたら最後、もちろん貢ぐのは”あなた”の方です。
日蓮にとって女人が自分をあがめるのは当然のことと思っていたでしょう。なぜなら、女人成仏をはっきり説いているのは法華経だけであり、その法華経の世界第一の行者が日蓮なのですから、
「女を救えるのは俺だけだ!」
と断言したとしても、理にかなっています。すべての女人は日蓮に貢ぐべきなのです。そうしないと天国に行けません。地獄へ堕ちます。
今でも宗教家ともいえないあやしげな”霊能者”を夢中になって信じている女性があとを絶ちません。日蓮のオーラといったら、鎌倉武士を何十人もまとめてふっとばすほどでしたから、そんな本物の宗教家に出会ったら、女はみんな完全に参ってしまいます。日本国中の女人は日蓮の信者になってもおかしくありません。
そして実際、多くの女性信者が日本全国からはるばる身延の山中まで布施を届けて日蓮を支えました。
そして今でも日蓮系の宗教団体は熱心な女性信者でいっぱいなのであります(それが日蓮の魅力のせいかどうかは知りませんが)。


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